「百年の散歩」多和田葉子

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ベルリン在住の作家、多和田葉子の「百年の散歩」を読みました。

ベルリンではないどこか

ベルリンの実在する10の通りを主題にした連作集で、舞台はどれもベルリンのはずなのに、読み進めていくうちにどこの国の話かわからなくなる。そもそも、私たちが暮らしているこの次元の話なのだろうか。だんだん自信がなくなる・・・。

異次元というほどではないが、ほんのちょっとだけずれているパラレルワールド。そこに頭だけ突っ込んでしまったような、多和田葉子の小説はいつもそんな感覚にさせられる。

そして、彼女の独特な表現はいつも私の心の中にしっくりはまってくる。

携帯は、古い家の壁にあいた穴のようなものだ。その穴から雨や風のように用件が吹き込んでくる。車窓ならば、長いこと田園風景を眺めていても、緑の中から手が伸びてきて、わたしの生活に入り込んでくることはない。(「カール・マルクス通り」より)

携帯は便利なもの、でもそれは自分の気持ちや都合を無視して他者が生活に割り込んでくることを許す道具でもある。

冷房のきつい店なので、脳味噌はすぐに「入らない」と判断しただろうけれど、肌の方が判断が早くて、足に賄賂を贈って店に入ってしまったのだ。そのようにわたしの内部で行われている闇政治をやめさせたい。(「カール・マルクス通り」より)

頭と身体はいつも乖離している。それが体内での「闇政治」なら、「賄賂」につかわれているものは何だろう。

たとえば散策者であることがわたしの国籍だと思っていた。「日本人」という言葉を思い浮かべた途端、ラーメンのにおいがして、脳を素手で触られたみたいにぎょっとした。(「トゥホルスキー通り」より)

多和田葉子の言葉の世界に頭からつま先までひたり、私も「散策者」として様々な国や次元を歩いている。でも、本を閉じると現実世界に戻ってしまう。

それがとても残念である。



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